The idea of India

題名:The idea of Indiae0158454_19561427.jpg

著者:Sunil Khilnani

出版年:2003

出版社:Penguin

ケララ州の友人宅に遊びに行った。

イギリスによる植民地支配の話題になり、「イギリスに支配された150年間に、インドが蓄積してきた知恵が破壊され、代わりに彼らの解釈による『カースト制度』が導入され、それまでの『インド』がなくなってしまった。この痛手は大きい」と80歳近い女性が言った。

カースト制度はイギリス帝国主義の産物であること、国(あるいは国民国家)は、西洋のナショナリズムを通して生まれた概念であり、アジアやアフリカでは植民地主義を通して国民国家が生まれたことについては多くの議論が既になされている。

さて、これらの視点から「インド」を見たことがないことに気づいた。「インドとは?」「インドとパキスタンの分割統治の背景は?」と改めて疑問に思い、この本を読んでみることにした。

良書。

インドは1947年の独立以後の政治的取り組みの結果、国民国家の形をとり続けている。インドは多元性と例外性に満ちた国だ。言語、民族、宗教などの違いが多様であり、地理的にあるいは文化的に国としてまとめようとしても到底無駄だ。文化や宗教を単位としてまとまろうとする動きが強まれば強まるほど、国として瓦解してしまう。それを回避するためには、やはり政治が重要である。これが著者の主張である。

イギリス植民地時代、ガンジー時代、ネルー時代、ラジブ・ガンジー時代、そしてその後の政治を分析しながら、インドが今の形をとるようになったことを解説してくれる。

Regionalismの関連から、主要都市についても触れられ、大変興味深い。今、私はバラナシに住んでいるが、ヒンドゥー教徒の聖地として有名なだけでなく、どうやらガンジーの時代から「汚い町」として認識されていたようだ(溜息)。

インドに興味を持ち始めたばかりの読者だけでなく、ある程度知識と経験がある読者にとっても楽しめる本だと思う。


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# by sakonia73livre | 2017-06-12 19:57 | 人類学(Ethnography)

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題名:Talking to the Enemy: Faith, Brotherhood, and the (Un)Making of Terrorists

著者:Scott Atran

出版年:2010

出版社:HarperCollins e-books


昨今のテロリズム多発を受け、ジハーディストについて、

特にどうして若者がジハーディストになるのか興味があり、

人類学者による研究があるかどうか調べたところ、この本を見つけた。

Kindle版で118円という破格の値段で迷いなく買った。


斬新な切り口、明晰な分析、豊富な事例と、豊かな内容の良書。

著者の「昨今のジハーディスト化」の意見は、これまで読んだ分析の中で一番腑に落ちた。

ジハーディストは、特に変わった趣味嗜好を持っているわけではない。


彼らは私たちと同じように生活してきた。家族や友人などと関り、彼らと影響しあって暮らしてきた。

ジハーディストは何かの「目的(あるいは主義)」のために自爆するわけではない。

「誰かのため」に、関係性において自爆する。


昨今のテロ行為は、組織による命令の下に行われているわけではない。

サッカーなどで遊ぶ若者が、サッカーのために集まるように集まり、遊び仲間がテロ行為に結びつくときは結びつく。

ジハーディストとして死んだ若者は、サッカーのロナウドのように憧れの存在となり、

それに続く若者が現れる。


著者は2005年頃から、現地調査を通した分析に基づき、ジハーディストが生まれる背景は個々に異なり、

地域や個人のバックグラウンドに合わせた調査と対応策が必要、

テロリズムを止めるには社会的な取り組みが必要との意見を提示してきている。

アメリカ政府から要請されて意見を述べてもいるが、

高度技術を投入してテロリズム撲滅に挑んでいた当時の政府には、真剣に受け止められなかったようだ。


昨今は、ナイフによって刺殺したり、一般の車両で通行人に突っ込むタイプのローテクなテロリズムがヨーロッパで起こり、

それらテロリストは紛争地に生まれ育っているわけではなく、当のヨーロッパ出身者であるといった状況が主流となる中、

上記のように著者の論じるジハーディストが生まれる背景、テロリズムへの社会的アプローチに本質があると、

やっと多数派が気づき始めた…といった感じだろうか。


テロリズムは、自然発生するような現象ではない。

人間が起こすものなのだから、人間に原因がある。

社会的現象と捉えない限り、原因も解決策も見出せない。

これらのメッセージが、著者の強い信念が、この1冊を貫いている。


簡単に内容に触れると、

ジハーディストに関わることならば何でも!というぐらい幅広い内容。

地域も、ヨーロッパ、インドネシア、アフリカ、中東を網羅し、

ジハーディストの定義を踏まえ、歴史を遡る、豊富な内容。

(途中、「長い。半分ぐらいでいいのに…」と思ったりもした。)


パレスティナとイスラエルについて多くのページを費やしている。

きっと、パレスティナ・イスラエル問題から出発した人なのかもしれない。


とにかく、読むべき書。

繰り返すが、キンドルならば118円だ。


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# by sakonia73livre | 2017-06-09 19:00 | 人類学(Ethnography)

題名:Land’s End: Capitalist Relations on an Indigenous Frontier
著者:Tania Murray Li
出版年:2014年
出版社:Duke University Press Books

かなり気の滅入る内容。
インドネシアのスラウェシ島の山岳民族であるラウジェ族(Lauje Highlanders)は、
先祖代々から、土地を「自然からの借りもの」として親戚一同が使用する「共有地」として使ってきた。

世界とつながる資本主義経済の流れから、ラウジェ族もカカオ栽培に着手する。
ギリギリの生活から抜け出すために、ラウジェ族はカカオ栽培を好意的に受け入れた。
モラル経済とは仕組みが違い、彼らの生活方法に大きな変更を要求する資本主義経済ではあるが、
少しでも暮らしが楽になるならば…と乗り出した訳だ。

カール・ポランニーが論じたような、既存のモラル経済が社会のセーフティーネットの役割を果たし続けるほど、
資本主義経済の勢いは緩くはなかった。
土地を持つ者と持たざる者の区別が現れた直ぐに、
持たざる者は借金を抱え、借金を返すためにただ同然の賃金労働をせざるを得なく、
新しい作物に投資する余力も土地もないので、ますます貧困に陥っていく。

災害などドラマティックな人道被害に対して人道支援団体は動くが、
徐々に土地を失い、貧困に陥っていくような緩慢な事態には人の注目は集まらない。
そのような支援があったとしても、それらの情報や利益を得るのは、政府の権力者や土地をもつ有力者。
ラウジェ族は、誰からの助けも見込まれない。
ラウジェ族が(土地をめぐる)権利をもとめるため一丸となって立ち上がるしか…ない。

しかし。

世の中の流れは、気候変動や大気汚染問題が喫緊の課題となっており、
森林保護が叫ばれている今日、
代々、自然からの借り物として民族が共有地として使ってきた僅かな土地は、
彼らから遠ざかる一方である。

ラウジェ族の問題は、「彼ら」の問題ではなく、「私たち」の問題であることは一目瞭然だ。
このような事態が、多くの場所で起きているのも明らかだ。
著者が本書全体で、特に結論部分で特に開発分野の人々に対して述べているように、
「農業が上手くいかなかったら、止めて、工場従事者になればいい」といった安易ではなく、
でも、早急な解決が求められる。
(昨今流行り?のダイレクトペイメントなのだろうか…。
でも、その場合、自分たちの共有地で働くことでなりたっていた彼らの生活と「あり方」はどうなるのだろう?)

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# by sakonia73livre | 2017-03-20 16:47 | 人類学(Ethnography)

題名:Inner Engineering: A Yogi's Guide to Joy
著者:Sadhguru
出版年:2016年
出版社:Penguin Random House India Pvt. Ltd

これまで読んだヨガに関する本の中で、最も読み易く、分かり易く、面白い本。
ヨガのエッセンスを丁寧に一つ一つ説明してくれ、
一挙手一投足に意識を向けるヨガそのものを著書を通して実演してくれる。

エッセンスがぎっしり詰まっているので、何度も本書に戻り、
自分が納得いくまで、体得するまで、
繰り返し繰り返し、読みながら、実践するのみ。

お勧め度満点の本。


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# by sakonia73livre | 2017-03-19 23:27 | 東洋哲学

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題名:Give a Man a Fish: Reflections on the New Politics of Distribution
著者:Ferguson, James
出版年:2015
出版社:Duke University Press

明快な議論、議論を強力に支える興味深い事例。
Fergusonのエスノグラフィーは、面白いし示唆的。
著書は、人類学を学ぶものだけでなく、というよりむしろ「開発」に携わる人たちにお勧めしたい本。

以下、私が書き留めておきたい要約。

 経済発展すれば、貧困はなくなる。それがこれまでの開発の考え方、貧困削減の戦略だったし、現在もそれを前提に国際協力の分野は取り組んでいる。しかし、労働市場の拡大が見込まれないという現実が数十年続く中、その前提ではどうにもならないのではないか?と現実を受け入れる社会の流れもある。
例えば、南アフリカ。Basic Income Grant (BIG) という、国民の全てが基本的な収入を得られる社会保障を実施している。その背景には、南アフリカに住んでいる以上、国の資源から得られる利益を誰もが享受する権利がある、というもの。かなり斬新的。

 社会福祉という考え方は、欧米で作られた。健常な男子が働き、それができない人々、助けが必要な人たちを社会が保護するという考え方。「依存」という考え方が、否定的な意味合いで付属する。南アフリカでは、「依存」は否定的には捉えられていない。人間関係、社会の一員になるということは、支える人と支えられる人の関係、あるいは主従関係と言ってもいい関係に入ることである。欧米の「独立している人」は、社会関係のないいたたまれない存在として捉えられているともいえる。従って、誰かに依存する、社会に依存するというのは、スティグマにはならない。

 とはいえ、話は簡単ではない。「健常な働ける男性」は、主従関係であれ、極端に言えば奴隷としてでさえ、働き、その場で作られる社会の一員として地位を持ち、家族を養うのが、社会から認めらえる「男性」である。それなのに、何もせず、BIGに支えられるというのはアイデンティティの喪失ともいえる。
Fergusonは、この点が難しい点の一つとして挙げつつ、貧困に陥っている人がいなくなるには、BIGのように基本的な収入を全ての人たちが得られるシステムを作るのが喫緊の課題だという。これは、労働や市場(資本主義)ではない共有に基づきながら、しかし国家が調整役を現在よりも責任をもってとるような社会システム。それは、国家を超えて、全世界で取り組むことが必要かもしれない。夢物語に聞こえるかもしれないが、これらを提唱することにより、南アフリカ、ブラジル、イランでのBIGのような政策が取られるようになったように、世界は、aggressive demand sharingに基づく、社会的であることに最も必要なことに基づいた貧困のないものになっていくだろう。

P199
Thus, we are caught between a Marxism that denigrates and devaluates the distribution (in favour of production and labour) and an anarchism that denigrates and devaluates the state and bureaucracy (in favour of spontaneity and local).

What might a radical contemporary politics look like if it were grounded in both a lively appreciation of growing importance of non-labour-based forms of distribution and a strategy for turning administrative capabilities of state more fundamentally towards that task?

P213
As anthropological work on sharing, as foraging bands and everywhere, has underlined the importance of what is known as ‘demand sharing’, in which distribution is organized round neither gifts or exchanges but the aggressive demands of those who are understood to be in a position to rightfully receive share.

P214
Such sharing is not based on citizenship nor indeed abstract membership at all. It is, instead, based on what Widlok terms ‘presence’. When a hunter returns to camp with carcass, who is entitled to receive a share? The principle of demand sharing provides the answer: whoever is there. The morality is straightforward and compelling. To eat one’s fill while hungry others stand by is plainly unacceptable. Instead, the force of the ‘demand’, in such context, comes from a non-negotiable principle that presence itself brings with it a distributive entitlement. Those who are here among us must eat and may therefore rightfully demand a share. Anything else would be shameful.
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# by sakonia73livre | 2017-01-04 18:16 | 人類学(Ethnography)